オタク論「空気を読めるオタクになれ」

最近、今まではけなされてきたいわゆる、オタクに注目が集まりつつある。もちろん、日本においてだけでなく、海外における、日本のオタクに対する注目もある。
なぜ、オタクが今、注目をあびているのかについてではなく、オタクへの注目から、オタク自身の振舞い方、見られ方を改めて考える必要がないのかということを、ふと電車で
隣に座ったオタクをみて思った。
みんなが想像するようなオタクとは、抽象的に言えば、だらしない、ださい、きもい、自己中etc.ではないだろうか。マイナスイメージしかないwあえて、プラスのイメージを探そうとすれば、気が弱いイメージから、「やさしい」・・・ちょっと厳しい気もするがw
 こういった世間一般の印象として、オタクサイドはどう思ってるのか?どうも思ってないはずである。なぜか?オタクだからである。オタクであるがゆえに、なんとも思ってないのである。
言い換えれば、まわりを気にしているオタクは真の意味でのオタクではないということ。
アニメ、ゲーム、フィギュア・・・などに熱中していて、周りが見えない、それしか見えないからこそ、オタクなのであって、ちょっと、アニメをかじっているからって、まわりの目を気にしているのは、なんちゃってオタクである。
 今回、俺が、問題にしてるのはこの種類ではない。まわりが見えないかわいそうなオタクである。今日、電車でたまたま隣になったオタクもそうだが、ほんとに気の毒である。
何が気の毒か?オタクというレッテルをはられたことによって、その人の印象は最悪になるからである。印象とは、一旦、印象づけられると、それを変えるのはむずかしい。
マイナスイメージを払拭し、プラスイメージにすることはさらにむずかしい。
じゃあ、印象なんて考えなきゃいいじゃん?そうもいかない。なぜか?人は絶対に人とかかわらないと、いきていけないからである。一人で 生活できる人っていますか?いないでしょう。
じゃあ、どうすればいいか。現実をみること。自分には何が必要で、そのために何をしなきゃいけないか考えること。その趣味に対する熱い視線をほんの少しでも
いいから、現実にずらしてみること。
正直、現実となりたいものを想像したときにするワクワク感(また、別に論じたい)には、境界線はないと思う。けど、そのワクワク感と妄想は似ているようでまるっきり違う。妄想である限りは、現実をみることはないし、今いる状況から抜け出すことはできないと思う。だから、現実を見るのである。
 なんで、こんなことを俺が言ってるのか?もちろん、さっきいったようにかわいそうだというのもある。しかし、それ以上に言いたいのは、日本のオタク文化は世界に誇れる最高のものなんだから、それを盛り上げる側がだらしなくてはいけない、節度を守るべきということ。

浦島